昭和20年8月15日の終戦宣言
この日がなかったら、私はこの世に存在しなかったかも。。。

今日は特別な想いで、父の話をします。


昭和18年の早春の事です。
当時15歳だった父は祖母にだまって、予科練と呼ばれている
海軍甲種飛行予科練習生に志願したそうです。

それを知った祖母は、「お父ちゃんが戦争行って
まだ帰って来てへんのに、あんたまで死にに行くんかぁ!」
と泣き叫んだそうですが
甲飛第十三期生として、4月に練習航空隊に入隊しました。


昔、私は父に「なんで特攻隊なんか志願したん?」って
聞いたことがありましたけど、平和ボケで育った子供に
当時の事を話しても理解出来ないと想ったのか
今となってはよく解りませんが。。。
ただ一言「美味しいもん食べられたからな~」と、はぐらかされ
私も、それ以上聞くのは何となく怖いような気がして
その話は、それっきりになりました。


ところが、少し前に父の遺品整理をしていたら
「予科練と特攻の追憶」と題した書き物が出て来ました。

それは、第一章、第二章、第三章、第四章を原稿用紙25枚に
纏めたものですが、年月日が記されてないので
いつ頃書き溜めたのかは解りません。

副題には「この小文を、沖縄特攻作戦で散華せし
クラスメート○○○○○君の御魂に捧げる。」
と書かれています。


書いた時期はいつであれ
友人と生死を分けたあの時代の重さを
常に背負っていた事は間違いなく
父なりにそれを記すことで、私達に平和や自由や文化の大切さを
感じさせ、又そのことを戦死した人々への供養としたかったのでしょう。


当時は、15,6歳の子供達にまで、戦争に生命を捧げることを
何の抵抗も無く、素直に受け入れられる教育をしていて
父は元より、私達の親世代の人達は皆、そのような教養の無い
国家にほんろうされた事を、憂いながら生きてきたのだと
想わずにはいられません。


この小文によると
昭和20年になると戦局が劣勢になり
敵空襲が頻繁になってからは
「一億総特攻」の掛け声に、全国民が死を覚悟し
特攻隊だけではなく、どこの軍隊でも自爆訓練が行われて
いたようですが、、、

その頃の日本海軍には、闘うべき軍艦も新鋭航空機も殆どなく
残されたのは、本土決戦用の特攻兵器と称する
人間魚雷だったそうで
父はその中の「海竜」の操作訓練を受け、「一艇必ず一艦を葬る」
を目標に、死ぬ為の訓練「死に方用意!」を重ね
出撃の日を待っていたようです。

国を護る為、家族を護る為に、青春はおろか命を捧げようとした
その青年は、17歳になったばかりでした。

父ばかりではなく、当時の大日本帝国には
自分達若者が楯となって戦わなければ、国が亡ぶと想い
そう信じて死に赴くのが当然と、学業半ばで生命をかけて
戦争の前線に身を投ぜざるを得なかった
大勢の学徒達が確かにいたのです。


終戦記念日のこの日は、毎年やってきますけど
無謀な戦いと解って突き進んだあの時代も、だんだん遠のいて
当時の事を語れる人も、次々とあちらの世界へ旅立っていかれ
日本の殆どの人、8割近くが戦争を知らない世代です。

私自身も、戦争は想像の世界でしかないのですが
ちょうど今日この日が、特攻隊の生き残りだった父の
四十九日にあたりますので、改めて当時の父と向かい合って
ここで紹介する事も一つの供養になるかと想い、話してみました。


世界を見渡せば、いつの時代にも必ず何処かで戦争しています。
毎日誰かが殺されています。

今夜は、そんな様々な事を憂いながら
昭和20年8月15日、その日が真の終戦でありますようにと
願わずにいられません。